商品番号:3025
人間国宝 北村武資作 羅 八寸名古屋帯地 「上品羅」 未仕立て品
商品詳細
重要無形文化財保持者(人間国宝)
日本工芸会正会員
未仕立て品
長さ 490cm 巾 31cm
※サイズに関して、多少の誤差はご了承ください。
北村武資
北村武資氏は1995年「羅」の技法において、さらに2000年には「経錦」の技法において、2つの分野で重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝に認定されておられ、染織界における最も重要な位置を占める染織家のひとりです。
「羅」は、経糸4本を一組とし、一本の経糸が左右の経糸と捩り合って薄い網目状の織りとなり、地と文様を築いていく技法で、紗や絽などと同様、薄く繊細な軽やかさを特徴とし、その複雑な綟れによって、布に美しい〝隙間〟を生み、軽やかな文様を生み出す織物です。
中国・前漢時代に、織られていたとされる「羅」は、日本でも室町時代中頃までは織られていましたが、中世以降衰微し、応仁の乱以降はほとんど織られなくなりましたが、1972年の「二千百年の奇跡中国・長沙漢墓写真展」での一枚の写真に映し出された、貴人の棺の内張りとしての羅との出会いを機に、北村武資氏が、「羅」の再現への取り組みを始め、自ら工夫をこらした織り機を考案し、約一年をかけて再現に成功されました。以後さらに現代性を加えた新しい羅の世界を広げられ、1995年に国の重要無形文化財保持者に認定されました。また、北村武資氏は、その高度な技術を再現するのみで満足することはなく、独自のリズムを刻む透かし文様が有機的な糸の力を引き出す「透文羅」として、〝現代の羅〟を見事に示されました。
「経錦」もまた北村武資氏の世界の重要な一角を形成しています。 中国では漢代に発達し、日本では古墳時代の出土例が報告されており、本格的には飛鳥時代以後に織られたと言われています。経錦は複数(基本は3色)の経糸を一組として、その浮き沈みで文様を表していく織物で、経糸が密になるため、制約が大きく、歴史の上では次第に衰退しました。しかし、北村武資氏は、旺盛な探求心を持って取り組み、技法の制約を少しも感じさせることなく、斬新で大胆な経錦の文様を展開していきました。文様の図と地とが絶妙の配置で展開し、柄の大きな部分と隙間や細部とが一部の隙も無駄もない完全なリズムで繰り返され、その精緻で破綻のない織り組織、洗練された色彩は、品格をたたえ、雅な作品として深い説得力をもつ、重要無形文化財保持者らしい織物となります。
さらに、北村武資氏は、織物の基本四原組織として平織・綾織・繻子織・綟織があるが、それらは全て、経糸と緯糸の〝関係〟を示すものであり、織物の基本は全て同じだと考え、「織物の組織そのものが表現」であるとして織の構造美を極め、羅も経錦も一技法として相対化することで、他にも多様な織を創作されてこられ、あらゆる織物を繊維の構造体として捉え、織の表現の根源に立ち向かうことで織物の創造性を示してこられました。
また、北村武資氏は化学染料、明度、彩度の高い色を積極的に採用し、単独では一見派手な色糸を、織物という組織に入れ込み、帛(ぬの)を構成する物質として発色することで、洗練された色調へと変容します。また、文様構成に併置される色同士の関係や面積のバランスが、どの色も最適な役割を演ずるようになり、 明度も彩度も高い色彩が典雅で華やかな品格を形成し、厳選された鮮やかな配色は、文様を、より明快に、格調高く見せています。
1935年、京都市下京区五条に生まれ、表具師であった父親を早くに亡くした北村武資氏は、遠戚が西陣で機仕事をしていた関係で、1951年、15歳で織物の見習い工として西陣で働き始めました。日本を代表する織物の産地、西陣で、機織り職人たちのために糸を巻き、機をセッティングすることから仕事を始め、1959年には大阪髙島屋で開催された初代龍村平蔵展を見て感銘を受け、業界をリードする織物メーカーの一つ「龍村美術織物株式会社」へ入社しました。熟練の技術を持つだけでなく織物に対する作家的な目線を持つ、龍村の職人たちと会話する中で、織に対する主体的な姿勢を身につけていき、織りの技術をゼロから一つ一つ体得していく中で、織物産業の最有力地域西陣で、〝織物とは何か〟を掴んでいきました。その後、北村武資氏は、1960年、北区紫野に小さな機場を借りて独立し、装束や法衣の仕事をしながら、自分の色や模様で仕事をしたいと考えるようになり、1963年には、後の重要無形文化財保持者となられた京都の友禅作家・森口華弘し氏が主宰する染織研究会に、参加するようになり、〝創作〟という概念を自身の内に築き、1965年、伝統工芸第二回日本染織展に初出品し、《菱重市松文様帯》で日本工芸会会長賞を受賞し、同年の第十二回日本伝統工芸展にも《名古屋帯 厳流》で入選されました。さらに、確かな織の規則性や秩序を保ちながらも、しばしば有機的と言っても良い模様のうねりを持つ織文様や豊かな奥行きを伴った作品、《帯 漣》は、1968年の第十五回日本伝統工芸展でNHK会長賞を受賞しました。1972年に、中国・長沙漢墓写真展で羅を見つけ、織り上げた《織帯羅》で、第二十回日本伝統工芸展に入選し、1983年、第30回日本伝統工芸展には経錦の作品《亀甲花文経錦着物地》を発表されました。
他にも、素材としての糸選びに対する厳しい視線から生まれた、「変わり織」と呼ばれ、糸と糸とが織り成すダイナミックな結びつき、その連続性によって生まれる素材感が生き生きと感じられるようなオリジナリティ溢れる織物などを織られています。北村武資氏が手がける多様な織帯の中でも、フォーマル向けの帯として広く知られ、他の織技法よりも多色で金銀糸も使用されており、奥行きのある品の良い華やかさが無二の存在感を放つ、<煌彩錦>や、地色に数色の縦縞が織り出され、その縞模様に重なるように文様が表現されており、落ち着きのある質感と趣は、結城紬などの上質な紬から訪問着まで幅広く合わせていただける<斑錦>などがあります。
わずかな厚みの中に、複雑な組織が作る豊かな空間が広がり、立体的な文様など北村武資氏ならではの「織り」をお手元で、存分にご堪能くださいませ。
残念な事ではありますが、北村武資氏は、2022年3月31日に永眠されました。この作品との一期一会を大切にしていただきたいと思います。
西陣
「西陣」は西陣織工業組合の登録商標です。
西陣という行政区域はありませんが、いわゆる西陣地区といった場合、上京区・北区を中心に、おおよそ南は丸太町通、北は上賀茂、東は烏丸通、西は西大路通に囲まれたあたりを指します。
「西陣」の名は、応仁の乱(1467年-1477年)の際に西軍総大将である山名宗全らが堀川よりも西のこの土地に陣を構えたことに由来します。
西陣織にたずさわる業者は、こうした京都市街の北西部を中心に集積しています。
西陣織とは、「多品種少量生産が特徴の京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物」の総称です。
昭和51年2月26日、国の伝統的工芸品に指定されました。
西陣の織屋は、平安朝以降連綿と積み重ねられてきた高い技術の錬磨に加えて、優れたデザイン創作のため、創造力や表現力への努力を重ね、「大舎人の綾」「大宮の絹」などと呼ばれる織物が作られ、また独自の重厚な織物は寺社の装飾に使用されてきました。
帯などの西陣織の製品には、証紙番号と呼ばれる組合員番号が付されています。これは西陣織工業組合の組合員一社一社に付されている固定番号です。
以前は他産地との区別化のため産地証明がなされていましたが、この番号が証紙に入ることによって、その製品がどこの織元で織られたものかがわかるようになりました。
この組合員番号がいつから始まったものであるかは、実は定かではありませんが、現在の西陣織工業組合の設立(昭和48年)より前の旧組織のもと、昭和20年代後半には既に存在していたようです。
また、番号は、必ずしも織元の古い順に付されているわけではなく、なかには古い織元でも、任意に二桁や三桁の番号を選ばれているところがあるようです。
日本工芸会
日本工芸会は、重要無形文化財保持者(人間国宝)を中心に、伝統工芸作家や技術者などで組織されている日本の公益社団法人です。現在は、工芸分野重要無形文化財保持者を含めて正会員役1,200名が所属しています。「日本伝統工芸展」は日本工芸会が文化庁とNHK、朝日新聞社と主催する、日本の優れた伝統工芸の保護と育成を目的にした公募展です。昭和29年から1年に1回開催しており、日本工芸の技と美が集結する場となっています。他にも人間国宝を講師とする伝承事業や記録保存などを行うなど、無形文化財の保存や伝承および公開に関する事業を進め、その実績は他に比較するもののない唯一の組織です。
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